閑話休題:始まりの日

 バイオハザード。

 実際に自分の身に振りかかるまで、それはゲームの中だけの出来事だと思っていた。

 けれど、あり得ない話ではなかったのだ。魔法もそうだが科学力もこの数百年で大きく進歩している。いつ起こってもおかしくない状況だった――。

 

 

 その日、俺たち五人はそれぞれ別の依頼を受けて事務所を出た。視界を塞いでいる空人は普段から憐不と共に行動しているのだが、この日に限っては別々の依頼を受けていたために個人行動となっていた。

 俺が受けた依頼内容は『動き出した死体を止めてくれ』という意味不明なものだ。依頼は突然かかってきた電話で受けたので依頼主の顔は分からないが、中年の男の声だった。それに怯えているようでもあった。

 死体が動くはずがない。死んだらもう生き返らないのだから。そう思いながらも俺は現場へと向かったのだ。

 

「もしもーし万事屋『O.K!』ですぅ。ご依頼主の方いらっしゃいますかー」

 夕方。現場である依頼者の自宅は閑静な住宅街にある。到着してからチャイムを鳴らしたり声をかけているのだが、中から反応がない。

「依頼しといて不在ってありかぁ? あ、逃げてる可能性もあるのか」

 仕方なく電話をかけてみるも、繋がらない。

「死体に殺られた、とかじゃねぇよな……?」

 ドアノブに手をかけ、回す。それはあっさりと回ってしまった。俺は愛銃――そう呼ぶのも癪なのだがこいつが一番手に馴染む――である〈メシア〉を構えながら慎重に扉を開けた。

 その瞬間、途轍もない腐臭が鼻をついた。思わず嘔吐いてしまいそうになる。必死で口呼吸をしながら、悪いと思いつつも土足で上がらせてもらう。

 と、廊下の奥で呻き声が聞こえた。一枚の扉は隔てている、その向こう側からだ。

「依頼主さーん……?」

 小さな声で呼びかけるが反応はない。しかし俺は更にもう一つの音を聞いた。

 グチャグチャと、水っぽくて耳障りな音だ。聞いているだけで不愉快になる。

「賞味期限切れの食べ物でも食ってんじゃねぇだろうなあ」

 そんなことをぼやきながらも扉の前まで辿り着く。廊下に膝をつき、俺はそろそろと開けて隙間から部屋の中を覗き見た。

「う、ぇ……」

 信じられない光景が広がっていた。胸から血を流した若い女が、中年男性の首元に齧りついてその血肉を貪っていた。

「って俺も似たようなことしてるじゃねぇか」

 メシアは殺す相手の血を飲むことを代償として使役している、悪魔の宿った銃だ。だから俺も、生きている人間からや死体から血液を飲んだことはある。

 しかし今目の前で行われているのは、フェチシズムとしてのカニバリズムや俺のようにリスクとしての吸血とは明らかに違う。それはまさに野生動物の捕食と同じだった。よく見ると女の皮膚は変色し、一部はずる剥けて骨が見えてしまっている。男の方は既に絶命しているようだ。恐らく、彼が依頼者だったのだろう。

 依頼者はこの女に怯えていたのだろうか。依頼内容は動く死体の処理。だとしたらこの女は既に死んでいるということになる。

「死んでいるなら致命傷は心臓を撃たれた、のか。死に切れなくて殺しに蘇ったとかそういうことか?」

 それはともかくとして、先に処理班を呼んでおいた方がよさそうな案件だ。こいつらは街の障害物から死体の隠蔽まで何でも処理してくれる組織である。

 始末したと同時に到着してくれれば早く帰れる。今日はここまで来るのに大分遠出してしまったから、急行電車に乗っても帰るのは夜になってしまう。

 面倒なことになったと思いつつも携帯電話で暗記している処理班の事務所の番号を押した。だが耳に当てて聞こえたのは、電波が混み合っていて繋がりませんというアナウンスだった。

「何だよ、今日は処理班の奴ら引っ張りだこなのか?」

 携帯電話をポケットに戻したところで顔を上げると、視界いっぱいに骨の浮いた脚が映った。

「あ?」

 女が。さっきまで男を貪っていた死体女が、いつの間にか俺の目の前に立っていた。口から咀嚼しきれなかった肉と血が顎へと滴り落ち、廊下に血の染みを作り上げている。こんな至近距離に来るまでどうして気付かなかったのだろうか。腐臭に鼻が慣れてしまったのか?

「え、と。お邪魔してます……」

 パニックになった俺が言えたのはその一言だった。そしてその瞬間、女が頭を振り乱しながら俺に腕を伸ばした。

「うわっ! ちょ、ちょっと!?」

 尻餅をつきながら後退り、〈メシア〉を構える。

 しかしふと考えてしまった。こいつを〈メシア〉で殺した場合、血を飲まなければならない。そんなの嫌だ。触るだけでも吐き気がする。飲まないという選択肢はあるが、そうなると耐え難い乾きに襲われる。

 俺は〈メシア〉を腰のホルダーへ戻し、コートの内側のホルダーに仕舞っていた別の拳銃を向けた。そして脚に狙いを定める……。

 というか、こいつは本当に人間か? 胸から血を流し、死肉を食らう、目の前の人間の形をしたコレは、脚を撃ったぐらいで止まってくれるだろうか。

 ああだこうだと考えてあぐねている内に、女の後ろからもう一人敵が現れた。ゆらりと出てきたそいつを見て、今度こそ俺は絶句する。

 それは、ついさっきまで体を食われていた男だったのだ。目の焦点は合っておらず、だらしなく開いた口から涎を垂れ流しながら女の後へ続く。

「な、何だよ……! どういうことなんだよぉ!!」

 叫んで答えてくれるなら苦労はしない。それでも聞かずにはいられなかった。今起こっている現実が理解出来ない。恐怖が心を埋め尽くそうとする。

 しかしそれとは反対に脳は冷静に生き抜く方法を考えていた。

 正攻法は効かない。言葉も届いていないようだ。俺は死にたくない。なら殺すしかない。こいつらはもはや人間ではないという判断は、もう間違いない。

 頭部へと銃口を向け、引き金を引く。発射された弾丸は吸い込まれるように女の額へと向かい、着弾した。血と体液を噴き出しながら前方へ倒れこむ。その間に撃鉄を起こし、今度は男の頭へと向けて撃つ。同じように男も女の上へと倒れた。

 そして即座に退却。震える足を引きずりながらも俺は家から脱出した。

 玄関を出た瞬間、数多の悲鳴が耳をつんざいた。入るまでは静かだった住宅街には今、逃げ惑う人々を追う者と血の臭いが溢れ返っていた。

「もう、何がなんだか……」

 呆然と呟く俺の前の前で、次々と人が死んでいく。人間の形をした何かが人間を食らう。食われた人間は死物狂いで暴れ回るが逃げられない。そのうち痙攣を起こし、それすらも止まり、そして次の瞬間おもむろに起き上がる――。

 まだ生きていて食われている最中の人間が口々に叫ぶ。

 

 助けてくれ。ゾンビだ。ゾンビに食われる……と。

 

 俺は何も出来なかった。一人、また一人と数を増やし、気付けば人間は俺しかいなかった。

 皆、ゾンビになっていた。

「――――――!!!!」

 声にならない声を上げ、俺は駈け出す。ゾンビの腕を掻い潜り、とにかくどこでもいいから人間がいる場所へと走る。

 だが駅前に来た俺は、一目見た瞬間そこから離れた。既にそこもゾンビの巣窟となっていたのだ。

 なら誰もいない方へ。人間もゾンビもいない方へ行かなければ。銃を握り締めながらひたすら走る。

 

 すっかり日が落ちて夜になった頃、辿り着いた先はぼろい空き家だった。手入れもされておらず電気も通っていないが、一先ず休息を取らなければと、俺はその家へ飛び込む。

「ハッ、はあーっ。ゲホッ……!」

 咳き込みながらどうにか息を整える。その間に『O.K!』の事務所へ電話する。が、出ない。先程と同じアナウンスだった。次に所員たちが持っている携帯電話へとかける。結果は誰とも繋がらなかった。

 電話は諦めた。その明かりで周囲を照らす。すると古いラジオを見つけた。この自体に関して何か報道しているかもしれない。急いで電源を入れ、スイッチを回す。幸いこれは生きているようだ。

 ノイズ混じりに聞こえたのは、先週末にある研究所が薬品の移送中に襲撃を受け、危険薬品をばら撒かれたというニュース。政府はこれを、〈バイオハザード〉と命名し、動く死体――ゾンビは頭部を破壊すれば活動を止めるということ、ゾンビによって傷をつけられた人間は同じようにゾンビ化するということ。……そんなことが流れていた。どうやら分かっていることはそれだけらしい。

 そのニュースには疑問しか抱けなかった。何故そんな薬を開発していたのか、誰が移送車を襲撃したのか、最初に発症したのは誰か。大体何故そんな薬がばら撒かれたことをもっと早く国民に伝えなかったのか。

「考えても、しょうがないか」

 ラジオのスイッチを切り、その場で横になる。カビ臭さが鼻につくが、腐臭よりはマシだ。

 目を閉じるとみんなの顔が脳裏に浮かんだ。こんな状況になって、冬彼は泣いていないだろうか。七はパニクっていないだろうか。憐不は戸惑っていないだろうか。目を覆っている空人は無事だろうか。

 そんな心配もあるが、自分が無事に事務所である家に辿り着けるかも心配だった。まずここがどこか分からない。依頼主の家から更に遠く離れてしまったから。それにこんな惨状じゃ交通機関もきっと役に立たなくなっているに違いない。徒歩で帰宅すれば何日かかるだろう。

 くぅ、とお腹が鳴った。この状況で呑気に鳴く腹の音に思わず笑みが漏れる。

 少し休んで、朝になったら食料を探そう。腹が減っては戦は出来ぬと言うし。

 それから家へ帰ろう。みんなが無事だと信じて。

 普段の就寝時間には早いが、疲れ果てた俺はそう考えながら眠りへと落ちたのだった……。